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『銘仙夢織』第三章

第三章 澄江の記憶

着物箪笥の引き戸が、静かに音を立てて開いた。

指先が触れた瞬間、ふっと漂う香りがあった。 それは、樟脳のような、けれどどこか甘い匂い。 私は夢の中で、それを深く吸い込んだ。

光の射さない座敷の奥、膝をついて座る若い女の姿。 年のころは三十を少し過ぎたくらいか。 彼女は、黙って一枚の銘仙を畳んでいた。

「……あの人は、今日も帰ってこないのよ」

誰にともなくそう呟く声は、かすかに笑っていて、そして深く沈んでいた。

澄江、と名乗った記憶がある。 戦後まもない、東京の外れ。焼け跡の街。 女手ひとつで年老いた母と暮らしている。

物のない時代だった。 着物を仕立て直し、解いては洗い張りし、ほどいてまた縫い直す。 銘仙はもう、お出かけ着ではなかった。 澄江にとっては“最後の晴れ着”だった。

「戦地から戻るって言ってたのよ、あの人。嘘じゃないと思うの」

その声には、まだ微かな希望が残っていた。 でも、もう三年が過ぎていた。

銘仙を畳みながら、澄江はその布に触れては、指先を止める。 あの人が褒めてくれた柄。 手を繋いで歩いた夕暮れ。思い出すたび、彼女の呼吸は少しだけ浅くなった。

「せめて、この着物に包まれて、夢の中でだけでも逢えたら……」

静かにそうつぶやくと、澄江はその銘仙を、自分の胸に抱きしめた。

まるで、失われた時間そのものを包むように。

あの人がいなくなってからの年月を、澄江はひと針ずつ繕いながら過ごしていた。 

裏地のほころびを縫い直しながら、思い出に穴が空かないように。

縫い目は、まるで自分自身の心をつなぎとめるための儀式のようだった。 

食卓に二膳の茶碗を並べる癖も消えず、 「行ってらっしゃい」とつぶやく声も、誰に届くでもなく日々の中に溶けていった。

母が倒れた冬、澄江はふと思い立って、その銘仙を箪笥から取り出した。 ゆっくりと袖を通し、鏡の前に立つ。

何年ぶりだっただろうか。 少し緩くなった肩まわりと、袖口のやわらかな擦れ。 でも、その布は確かに、昔と同じように彼女の体に寄り添った。

母の葬儀を終えた翌朝、澄江は静かに墓地を訪れた。 冬の空気が頬を刺し、木々はすっかり葉を落としていた。

墓前に立つと、彼女はそっと銘仙の裾を整え、手を合わせた。

「……もう、待たないね」

声は震えていたが、言葉は澄んでいた。

その日のうちに、彼女は銘仙を風呂敷に包み、小さな段ボールに入れた。

「ありがとうね。ずっと一緒にいてくれて」

柔らかく微笑みながらそう呟いた澄江の目元は、涙ではなく光を帯びていた。

その日、彼女は銘仙を町の古着屋へと預けた。 もう待たなくていい。そう思えたのだ。

その瞬間から、心のどこかで止まっていた時間が、静かに動き出した。

 

 

朝、目を開けると、枕元に置いた銘仙が少しだけずれていた。 誰かがそっと触れたような、かすかな痕跡。

私はその布を手に取り、しばらくじっと見つめていた。

 澄江という名も、戦後の暮らしも、待ち続けた時間も、確かに夢の中で感じたのに、 それは私の人生ではないはずなのに、胸の奥が妙にざわついていた。

──待つこと、手放すこと。

何かを諦めるんじゃなくて、抱え続けていたものを、自分で下ろすこと。 それが澄江の決意だったのだと、ようやくわかった気がした。

布の手触りは変わらないのに、どこか空気が違っている。 

さっきまでそこにいた“誰か”の温もりが、まだ布に残っているような感覚。

私は銘仙を丁寧に畳み、光の当たる場所にそっと置いた。

「……私も、そろそろ手放すものがあるのかもしれない」

誰に向けたわけでもないその言葉が、自分自身の深いところに静かに落ちていった。

この銘仙は、次の記憶を、また私に見せようとしている。 そんな予感がして、私はそっと目を閉じた。

作・著:キモノプラス編集部