ストーリー 『銘仙夢織』第三章 キモノプラス公式 2025.04.25 第三章 澄江の記憶 着物箪笥の引き戸が、静かに音を立てて開いた。指先が触れた瞬間、ふっと漂う香りがあった。 それは、樟脳のような、けれどどこか甘い匂い。 私は夢の中で、それを深く吸い込んだ。光の射さない座敷の奥、膝をついて座る若い女の姿。 年のころは三十を少し過ぎたくらいか。 彼女は、黙って一枚の銘仙を畳んでいた。「……あの人は、今日も帰ってこないのよ」誰にともなくそう呟く声は、かすかに笑っていて、そして深く沈んでいた。澄江、と名乗った記憶がある。 戦後まもない、東京の外れ。焼け跡の街。 女手ひとつで年老いた母と暮らしている。物のない時代だった。 着物を仕立て直し、解いては洗い張りし、ほどいてまた縫い直す。 銘仙はもう、お出かけ着ではなかった。 澄江にとっては“最後の晴れ着”だった。「戦地から戻るって言ってたのよ、あの人。嘘じゃないと思うの」その声には、まだ微かな希望が残っていた。 でも、もう三年が過ぎていた。銘仙を畳みながら、澄江はその布に触れては、指先を止める。 あの人が褒めてくれた柄。 手を繋いで歩いた夕暮れ。思い出すたび、彼女の呼吸は少しだけ浅くなった。 「せめて、この着物に包まれて、夢の中でだけでも逢えたら……」静かにそうつぶやくと、澄江はその銘仙を、自分の胸に抱きしめた。まるで、失われた時間そのものを包むように。あの人がいなくなってからの年月を、澄江はひと針ずつ繕いながら過ごしていた。 裏地のほころびを縫い直しながら、思い出に穴が空かないように。縫い目は、まるで自分自身の心をつなぎとめるための儀式のようだった。 食卓に二膳の茶碗を並べる癖も消えず、 「行ってらっしゃい」とつぶやく声も、誰に届くでもなく日々の中に溶けていった。母が倒れた冬、澄江はふと思い立って、その銘仙を箪笥から取り出した。 ゆっくりと袖を通し、鏡の前に立つ。何年ぶりだっただろうか。 少し緩くなった肩まわりと、袖口のやわらかな擦れ。 でも、その布は確かに、昔と同じように彼女の体に寄り添った。母の葬儀を終えた翌朝、澄江は静かに墓地を訪れた。 冬の空気が頬を刺し、木々はすっかり葉を落としていた。墓前に立つと、彼女はそっと銘仙の裾を整え、手を合わせた。「……もう、待たないね」声は震えていたが、言葉は澄んでいた。その日のうちに、彼女は銘仙を風呂敷に包み、小さな段ボールに入れた。「ありがとうね。ずっと一緒にいてくれて」柔らかく微笑みながらそう呟いた澄江の目元は、涙ではなく光を帯びていた。その日、彼女は銘仙を町の古着屋へと預けた。 もう待たなくていい。そう思えたのだ。その瞬間から、心のどこかで止まっていた時間が、静かに動き出した。 *朝、目を開けると、枕元に置いた銘仙が少しだけずれていた。 誰かがそっと触れたような、かすかな痕跡。私はその布を手に取り、しばらくじっと見つめていた。 澄江という名も、戦後の暮らしも、待ち続けた時間も、確かに夢の中で感じたのに、 それは私の人生ではないはずなのに、胸の奥が妙にざわついていた。──待つこと、手放すこと。何かを諦めるんじゃなくて、抱え続けていたものを、自分で下ろすこと。 それが澄江の決意だったのだと、ようやくわかった気がした。布の手触りは変わらないのに、どこか空気が違っている。 さっきまでそこにいた“誰か”の温もりが、まだ布に残っているような感覚。私は銘仙を丁寧に畳み、光の当たる場所にそっと置いた。「……私も、そろそろ手放すものがあるのかもしれない」誰に向けたわけでもないその言葉が、自分自身の深いところに静かに落ちていった。この銘仙は、次の記憶を、また私に見せようとしている。 そんな予感がして、私はそっと目を閉じた。 第四章へ続く 『銘仙夢織』第一章『銘仙夢織』第二章 作・著:キモノプラス編集部 記事をシェアする #キモノストーリー #銘仙夢織 関連記事 キモノプラス公式 『銘仙夢織』第二章 ストーリー キモノプラス公式 『銘仙夢織』第一章 ストーリー