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『銘仙夢織』第二章

第二章 志乃の記憶

カタン。シャーン。カタン。

機(はた)の音が、朝の空気に深く沈み込んでいた。

経糸の向こう、かすかに滲む柄が、少しずつ立ち上がってくる。

今日織っているのは、赤地に白のぼかしが入った銘仙。 細かい絣模様が浮かび上がるたび、私は目を細めて見入った。

「志乃、休んでばっかいられんよ」 隣の機から、おしまさんの声が飛んできた。

「ぼーっとしてっと、今に柄が歪むよ」

「……はい」 私は息を吸い直し、踏み板を踏んだ。

機の音のリズムを感じながら、私は一日一日を重ねていた。 父を亡くし、母と二人で暮らし始めて五年。 家計を支えるため、十三の春からこの工場に通っている。

布に触れている時間は嫌いじゃない。 特に銘仙は、織っているうちに不思議と心が和らいでくる。 細かい絣を合わせながら思い出すのは、私が十五になった時、初めての給金のかわりにもらった反物のこと。 母が夜なべして仕立ててくれた。

町に出る日は、いつもそれを羽織った。 鏡に映る自分は少しだけ大人びて見えて、歩幅まで変わった気がした。

あの銘仙を着て出かけた日、私は彼と出会った。 東京から来ていた絹問屋の若い番頭――信次さん。

「その柄、いいですね。秩父で織ってるんですか?」 そう言われたとき、胸の奥にふっと灯りがともったようだった。 誰かに“私”を見てもらえた。

それが、あの春いちばんの出来事だった。

けれど、春が終わるころ、信次さんは突然、町から姿を消した。

何の前触れもなく、あの笑顔のまま、まるで風のように。

問屋の人に尋ねても、「急な話でね」と濁されたまま。

それでも私は、毎週のようにあの道を通り、彼と出会った店の角を何度も何度も振り返った。

やがて、夏が過ぎ、木々の葉が少しずつ秋に染まりはじめた頃、 私はひとり、あの着物を手に取り、そっと箪笥にしまい込んだ。

もう、誰の目にも映らないように。 でも、忘れてしまわないように。

私はその布に、胸の奥に残ったまま言えなかった言葉を、ひと針ずつ縫い込むようにして折り畳んだ。

それが、最初だった。 “想い”を、布に託すということを、私が知ったのは。

 

目が覚めたとき、部屋には朝の光が射していた。

カーテン越しの光はやわらかく、けれど私はしばらく、体を動かせずにいた。

胸の奥に、静かに波紋のように広がっていく感覚があった。

あれは、志乃という名前だった。 彼女の記憶——夢にしては細部がリアルで、記憶にしては私のものではない。

でも、私は確かに“彼女を生きた”のだ。

そしていま、私はその続きを歩いている気がした。

スマートフォンに通知がいくつか溜まっていた。 仕事の連絡、SNSのコメント、「いいね」やフォロワー数。 でもそれを見たとき、心が何の反応も示さないことに、私は少し驚いた。

「誰かに見てもらう」ことより、 「誰かを見つめた記憶」の方が、こんなにも深く自分の内側を動かすのか。

私は再び銘仙に触れた。

ゆっくりと広げ、もう一度、光の中で布の揺らぎを見つめる。

その時、ふと感じた。 この布はまだ、“全部を語っていない”。

志乃の想いのその先。 誰かが、またこれを羽織ったはずだ。

私の記憶ではない誰かの人生が、まだこの布のどこかに眠っている。

「……次に見るのは、誰の夢?」 私は銘仙を両手で包み込むように抱いた。

あたたかさが、じんわりと指先に広がった。 まるで、答えが布の奥からゆっくりと立ち上がってくるように。

そして私は、次の記憶を迎える準備をした。

 

第三章へ続く

 

『銘仙夢織』第一章

作・著:キモノプラス編集部