それが、あの春いちばんの出来事だった。
けれど、春が終わるころ、信次さんは突然、町から姿を消した。
何の前触れもなく、あの笑顔のまま、まるで風のように。
問屋の人に尋ねても、「急な話でね」と濁されたまま。
それでも私は、毎週のようにあの道を通り、彼と出会った店の角を何度も何度も振り返った。
やがて、夏が過ぎ、木々の葉が少しずつ秋に染まりはじめた頃、 私はひとり、あの着物を手に取り、そっと箪笥にしまい込んだ。
もう、誰の目にも映らないように。 でも、忘れてしまわないように。
私はその布に、胸の奥に残ったまま言えなかった言葉を、ひと針ずつ縫い込むようにして折り畳んだ。
それが、最初だった。 “想い”を、布に託すということを、私が知ったのは。
*
目が覚めたとき、部屋には朝の光が射していた。
カーテン越しの光はやわらかく、けれど私はしばらく、体を動かせずにいた。
胸の奥に、静かに波紋のように広がっていく感覚があった。
あれは、志乃という名前だった。 彼女の記憶——夢にしては細部がリアルで、記憶にしては私のものではない。
でも、私は確かに“彼女を生きた”のだ。
そしていま、私はその続きを歩いている気がした。
スマートフォンに通知がいくつか溜まっていた。 仕事の連絡、SNSのコメント、「いいね」やフォロワー数。 でもそれを見たとき、心が何の反応も示さないことに、私は少し驚いた。
「誰かに見てもらう」ことより、 「誰かを見つめた記憶」の方が、こんなにも深く自分の内側を動かすのか。
私は再び銘仙に触れた。
ゆっくりと広げ、もう一度、光の中で布の揺らぎを見つめる。
その時、ふと感じた。 この布はまだ、“全部を語っていない”。
志乃の想いのその先。 誰かが、またこれを羽織ったはずだ。
私の記憶ではない誰かの人生が、まだこの布のどこかに眠っている。
「……次に見るのは、誰の夢?」 私は銘仙を両手で包み込むように抱いた。
あたたかさが、じんわりと指先に広がった。 まるで、答えが布の奥からゆっくりと立ち上がってくるように。
そして私は、次の記憶を迎える準備をした。