ストーリー 『銘仙夢織』第一章 キモノプラス公式 2025.04.10 目次 Toggle プロローグ第一章 紫にとける プロローグ 柄は、音のように浮かび上がってくる。糸のあいだから、ぼんやりと、そして確かに。 その瞬間、布はただの布ではなくなる。誰かが笑った時の声。 誰にも言えなかった秘密。 肌に残るぬくもり。涙の跡。そうしたものが、布の中に、静かに、けれど確かに染み込んでいく。それは、記憶というにはあまりに淡く、 忘却というにはあまりに鮮やかだ。長い時のなかで、何人もの手に渡ってきた一枚の着物。それは、語られなかった言葉をそっと抱えたまま、今も誰かを待っている。糸と糸の隙間に眠る、名前のない物語。それに触れたとき、あなたはもう戻れない。これは、銘仙が見た夢。そして、 あなたが、受け継ぐ夢。 第一章 紫にとける その銘仙に出会ったのは、雨上がりの骨董市だった。午後の光が濡れたアスファルトに揺れていて、私は濡れた街をふらふらと歩いていた。あの日は、予定していた友人との約束が急にキャンセルになった。なんとなくそのまま帰る気にもなれず、私は濡れた街をふらふらと歩いていた。雨はもう上がっていたけれど、空気にはまだ少し水の匂いが残っていた。ビニールシートの上に広げられた古道具の中で、色あせた、けれど目に焼きつくような紫の布が、静かに私を見ていた。「それ、めずらしい柄よ。昔の銘仙。戦前かもね」店主が言うより先に、私はもうその布に手を伸ばしていた。絣模様の輪郭はところどころ滲み、全体が微かに煙って見える。紫、と一言では言い表せない。葡萄の皮、夜の始まり、古い写真のセピアが混ざり合ったような色だった。値札は裏返しになっていて、私はそれをそっとめくった。「……買います。」自分でも驚くほどすぐに、そう口にしていた。財布の中には、ちょうどその金額ぴったりの現金が入っていた。私は布を抱え、足早にその場を後にした。 *いつものように遅くまで残業した、曇り空の夕方。仕事帰りの電車の中で、私はふと胸元に手をやった。 そこにあの銘仙はない。けれど、布の質感だけがはっきりと残っていた。柄は滲んでいた。にもかかわらず、その記憶だけは、不思議と色濃く心に刻まれていた。 糸の一本一本が、私に話しかけてくるような感覚。その日以来、世界がほんの少しだけ静かになった気がした。けれどそれは、音が消えたというよりも、騒がしさの中にぽつんと取り残されたような静けさだった。 友人からの結婚式の招待状に添えられた、完璧すぎるプロフィール。SNSを開けば、笑顔で海外出張に飛び立つ同期の写真や、ハイセンスなインテリアに囲まれた朝食風景。タイムラインには、ハッシュタグで彩られた“理想の暮らし”が、次々と流れてくる。そして、画面の隅には押しつけがましい広告の数々。「この資格でキャリアアップ」「週末で叶える自分磨き」「今のままじゃもったいない」会社の同僚が何気なく口にした、「なんで、そんなに着物着るの?」という一言。今までなら、無意識に流せたはずの些細なことが、どこか遠くで鳴っているサイレンのように、頭の奥で響いていた。「私は、何を求めて着物を着てたんだろう」“好きだから”では足りない気がした。“着たいから着ている”という感覚は確かにあるけれど、それだけでは説明できない『もっと別の何か』がある気がしていた。そう思った夜、またあの夢を見た。錆びた織機の音、足の裏に感じる冷たい床板、 見上げた天井には、煤けた木の梁。その視界の隅に、少女の手があった。白く、骨ばって、節の目立つ細い手。指先には絹の艶が移ったような、柔らかな光が宿っていた。糸を傷つけないよう、爪は短く整えられ、経糸を撫でるたび、彼女の手は布の呼吸にそっと寄り添っていた。目が覚めると、枕元に置いていた銘仙が、ほんの少しずれていた。誰かが、そっと触れたかのように。 *その日から、私は銘仙を仕舞うことができなくなった。箪笥に仕舞おうとしても、手が止まる。衣紋掛けに吊るすと、布の端がふわりと揺れ、まるで何かを語りかけてくるようだった。週末、静かな午後。 私はそっと、あの銘仙を肩に羽織ってみた。 室内の光が淡く反射して、布の模様が微かに滲む。ふいに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。涙が出るほど悲しいわけじゃない。 けれど、誰かの“想い”が、布越しに確かに伝わってくる。大切な人に言えなかった言葉。 残されたままの、あたたかな感情。それは、私がこれまで何度も味わってきたものと、よく似ていた。「わたしも……そうだった」銘仙に触れて、私は初めて自分の中に溜まっていた“言葉にならない感情”を自覚した。それは孤独とも違う、誰にもわかってもらえないという諦めとも違う。けれど確かに、そこにあった。私は布をなぞる指先をそっと止めて、息を吐いた。その瞬間、夢の中で見た“彼女の手”と、自分の手が重なったような気がした。 第二章に続く『銘仙夢織』第二章 作・著:キモノプラス編集部 記事をシェアする #キモノストーリー #銘仙夢織 関連記事 キモノプラス公式 『銘仙夢織』第二章 ストーリー