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『銘仙夢織』第一章

柄は、音のように浮かび上がってくる。

糸のあいだから、ぼんやりと、そして確かに。 その瞬間、布はただの布ではなくなる。

誰かが笑った時の声。 誰にも言えなかった秘密。 肌に残るぬくもり。涙の跡。

そうしたものが、布の中に、静かに、けれど確かに染み込んでいく。

それは、記憶というにはあまりに淡く、 忘却というにはあまりに鮮やかだ。

長い時のなかで、何人もの手に渡ってきた一枚の着物。

それは、語られなかった言葉をそっと抱えたまま、今も誰かを待っている。

糸と糸の隙間に眠る、名前のない物語。

それに触れたとき、あなたはもう戻れない。

これは、銘仙が見た夢。

そして、 あなたが、受け継ぐ夢。

第一章 紫にとける

その銘仙に出会ったのは、雨上がりの骨董市だった。

午後の光が濡れたアスファルトに揺れていて、私は濡れた街をふらふらと歩いていた。

あの日は、予定していた友人との約束が急にキャンセルになった。

なんとなくそのまま帰る気にもなれず、私は濡れた街をふらふらと歩いていた。雨はもう上がっていたけれど、空気にはまだ少し水の匂いが残っていた。

ビニールシートの上に広げられた古道具の中で、色あせた、けれど目に焼きつくような紫の布が、静かに私を見ていた。

「それ、めずらしい柄よ。昔の銘仙。戦前かもね」

店主が言うより先に、私はもうその布に手を伸ばしていた。

絣模様の輪郭はところどころ滲み、全体が微かに煙って見える。紫、と一言では言い表せない。葡萄の皮、夜の始まり、古い写真のセピアが混ざり合ったような色だった。

値札は裏返しになっていて、私はそれをそっとめくった。

「……買います。」

自分でも驚くほどすぐに、そう口にしていた。

財布の中には、ちょうどその金額ぴったりの現金が入っていた。

私は布を抱え、足早にその場を後にした。

いつものように遅くまで残業した、曇り空の夕方。

仕事帰りの電車の中で、私はふと胸元に手をやった。 そこにあの銘仙はない。けれど、布の質感だけがはっきりと残っていた。

柄は滲んでいた。にもかかわらず、その記憶だけは、不思議と色濃く心に刻まれていた。 糸の一本一本が、私に話しかけてくるような感覚。

その日以来、世界がほんの少しだけ静かになった気がした。

けれどそれは、音が消えたというよりも、騒がしさの中にぽつんと取り残されたような静けさだった。

友人からの結婚式の招待状に添えられた、完璧すぎるプロフィール。

SNSを開けば、笑顔で海外出張に飛び立つ同期の写真や、ハイセンスなインテリアに囲まれた朝食風景。

タイムラインには、ハッシュタグで彩られた“理想の暮らし”が、次々と流れてくる。

そして、画面の隅には押しつけがましい広告の数々。

「この資格でキャリアアップ」「週末で叶える自分磨き」「今のままじゃもったいない」

会社の同僚が何気なく口にした、「なんで、そんなに着物着るの?」という一言。

今までなら、無意識に流せたはずの些細なことが、

どこか遠くで鳴っているサイレンのように、頭の奥で響いていた。

「私は、何を求めて着物を着てたんだろう」

“好きだから”では足りない気がした。

“着たいから着ている”という感覚は確かにあるけれど、

それだけでは説明できない『もっと別の何か』がある気がしていた。

そう思った夜、またあの夢を見た。

錆びた織機の音、足の裏に感じる冷たい床板、 見上げた天井には、煤けた木の梁。

その視界の隅に、少女の手があった。

白く、骨ばって、節の目立つ細い手。

指先には絹の艶が移ったような、柔らかな光が宿っていた。

糸を傷つけないよう、爪は短く整えられ、

経糸を撫でるたび、彼女の手は布の呼吸にそっと寄り添っていた。

目が覚めると、枕元に置いていた銘仙が、ほんの少しずれていた。

誰かが、そっと触れたかのように。

その日から、私は銘仙を仕舞うことができなくなった。

箪笥に仕舞おうとしても、手が止まる。

衣紋掛けに吊るすと、布の端がふわりと揺れ、まるで何かを語りかけてくるようだった。

週末、静かな午後。 私はそっと、あの銘仙を肩に羽織ってみた。 室内の光が淡く反射して、布の模様が微かに滲む。

ふいに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

涙が出るほど悲しいわけじゃない。 けれど、誰かの“想い”が、布越しに確かに伝わってくる。

大切な人に言えなかった言葉。 残されたままの、あたたかな感情。

それは、私がこれまで何度も味わってきたものと、よく似ていた。

「わたしも……そうだった」

銘仙に触れて、私は初めて自分の中に溜まっていた“言葉にならない感情”を自覚した。

それは孤独とも違う、誰にもわかってもらえないという諦めとも違う。

けれど確かに、そこにあった。

私は布をなぞる指先をそっと止めて、息を吐いた。

その瞬間、夢の中で見た“彼女の手”と、自分の手が重なったような気がした。

第二章に続く

『銘仙夢織』第二章

作・著:キモノプラス編集部